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カラクリサイクル

『輝かしい青春』なんて無かった人のブログ

このブログに dot-metrix を導入しました

というお知らせです。


僕は 2006 年の 6月から今に至るまで、途中の休眠期間も含みつつブログを 10 年以上は更新し続けているのですが、 いかんせん、色々と行き当たりばったりで更新とか行なってきたため、

想像するな、計測せよ

という、Web 上でのカイゼンのアレが出来てない、という状態で 10 年ぐらいブログ更新を行なってきました。

が、今年の始めに、

もう少し、面と向ってブログに取り組む

と決意したり、あるいは最近、ようやくながら、ブログについて、

これ、もう少し色々と計画立てて行なった方がええんやない?

と思う様になったので、この度、まずは、

想像 するな。計測せよ!

を実現するため、昨日と今日とかで作業して、

dot-metrix.com

を、導入した事をここにお知らせしておきます。

また、今回、

dot-metrix.com

を導入するに当たり、色々とこのブログのデザイン周りと、あと、

の内容にも若干手直しをしたりも行なったのですが、実はデザイン周りが若干崩れてる部分が有るので、 その辺りもまあ追々手直しして行きたいと考えています。


という事で本日のお知らせは以上です。はい。

ま、dot-metrix の導入でどこまでブログ運営を改善できるのか、 については未知数な感じですが (なにせ今までそう言う事を行なったことが無い) 、 まあ、出来る範囲でブログ運営の改善は行なって行こうかな、と今現在は考えています。

という事で以上です。はい。

他人の機微情報は何がどうあれ『アウティング』すべきではない

今日、心療内科でのリハビリを終えて帰路についていた時に、 件の一橋大学で性的指向について『アウティング』された学生が転落死した事件について考えていて、

性的指向の『アウティング』ってなんで問題のある行為だと認識され辛いんだろう?

と疑問に思って、色々思考していたんですが、その時に、

あれ、そもそも『アウティング』って『性的指向』だけに限らないんじゃ?

とか、あるいは、

っていうか、自分がコントロールする権限のない情報って、 それこそ何でも『アウティング』するのはマズいっしょー

と言う結論に至ったので、今回はその辺りについて、考えをまとめる意味で、 その辺りについての自分の考えを書き出してみたい、と思います。

1. 他人の機微情報は、別に『性的指向』だけではない

今日の電車の中での思索の中で、まず最初に僕が気付いたのはコレで、件の一橋大学の事案では、

性的指向に関する機微情報 (=今回だとゲイである事) が『アウティング』された結果、 それを切っ掛けとして、不適切な対応が重なった結果、 『アウティング』された側が転落死する事態に成ってしまった

と僕は認識しているんだけど、そもそも今回の件、恋愛沙汰のもつれ、とか、 なんか『アウティング』した側に法的責任を問うのはどうなの? という意見も有るかと思うんだけど、そう言う事柄は関係なしに、

そもそも『アウティング』するとマズい情報って別に『性的指向』だけではない

と皆気がついた方が良い、と僕は思う。

というのも、件の事案では『性的指向』についての『アウティング』が問題となっているけれど、 これは別に『性的指向』ではなくても、例えば、

  • (アウティングされる側の) 当事者の心身の疾患、障害などの病症情報
  • 過去の補導履歴や、あるいは服役履歴などの犯罪履歴にまつわる情報
  • 若しくは、養育歴や家庭環境などの、親族にまつわる情報
  • 自身の信仰、あるいは宗派等の情報
  • 就職先や、あるいは職業などの情報

等々の情報も、

その人のその人の『機微情報』= 『アウティング』してはならない情報

になるのではないかな、と僕は考えています。

もっとも、先に例に上げたこれらの情報が、そもそも機微情報という扱いになり、 また、それらの情報によって誰とも問わずに不利益が発生している時点で、 『差別』を肯定しているのでは、って意見も有るとは思います。

ただ、現状の社会を見るに、まだまだ日本では多様性の全肯定、という所までは、 流石にまだ日本社会は至っていないだろうし、また、『性的指向』に限らず、 病症情報なんかも、現状、精神疾患とかだと結構偏見とか残ってる感じもあるので、 そう言った意味では、

他者の機微情報は迂闊にしゃべるべきではない

というのが、当面の社会では、他人に対し、不用意に不利益を与え、場合によっては、 それを喋った当人が法的責任を問われる、という事態になる事を避けるための心得とするしかないないのではないか、 と僕は思います。

2. どの様な時に『アウティング』は加害的行為足り得るか

で、今日、僕が心療内科でのリハビリの帰路の途中、もう一つ、

件の事件では『アウティング』は加害的な行為だ、と遺族側は考えているらしいけれども、 本当にそれを一方的に断ずるのは『妥当』なのだろうか?

という事についても思索していて、これについて、僕としては、

『アウティング』が『加害的行為足り得る』には、

『当事者間』に『信頼関係が無い』

という場合に、そう判断されるのではないか

と言う結論に至りました。

と言うのも、件の一橋大学での転落死の場合だと、転落死した学生の方は、

相手側に裏切られた

と認識されていたのは確かで、それ根拠に遺族の方々が相手側の学生に対し、訴訟を起している訳ですが、 もし仮に、

亡くなった学生の方と、その友人らに、『確かな信頼関係が有った』なら、 ここまでの事態には至っていなかったのではないか

と思うからです。

無論、事はもう起きてしまった後で、タラレバの話をしても仕方がないのはそうなんですが、 『アウティング』が『加害的行為』とされるのは、『アウティング』された事によって、 『アウティング』された側が、どのような不利益、あるいは不当な扱いをされ得るか判らず、 その事によって心理的なストレスを感じ、場合によっては心的外傷が引き起されるが故に、

『アウティング』は『加害的行為』である

とされる訳です。

それはつまり、もし今回の事件の際に、当事者間に確かな信頼関係が有り、

  1. 『アウティング』された側
  2. 『アウティング』した側
  3. 『アウティング』された情報を受けとった側

の三者三様が、正しく、って言ったらヘンですけれども、まあ、 『アウティング』されたとしても問題が起きない、あるいは起き辛い様に対応出来ていれば、 正直、件の学生が転落死する事態にはならなかったのではないかな、と僕は思います。

3. 件の案件の相手側の学生に『責任』は有るか否か

そして、最後に考えていたのがコレ。

正直、僕は当事者でもないし、また、件の事件というか事案については、 報道等を通してしか接していないので、なんとも言えない感じが有るんですが、 少なくとも、

『法的責任』を問えるか否か

については

『(アウティングに至った)文脈』に依る

と思ってます。

例えば、これが相手側の学生が、

自分のなかで今回の転落死した学生の告白を消化し切れずに、信頼できる友人間に相談し、 その結果として、友人間で件の学生の性的指向がバレる事態になった

という場合であれば、少なくとも、当事者間の信頼関係は崩れていたとしても、 相手側はなんとか自分の中で受け止めようとしていた、という事にはなり得るとは思います。 そしてその場合だとすると、法的責任は問えるかどうかは微妙かな、と僕としても思います。

ただこれは、

相手に誠意を持って対応していた

という前提が有っての話なので、件の事案では、真実、何がどこまでどうなのか、 っていうのは、まあ当事者にしか判らない事であるし、また、件の転落死した学生側としては、 相当に根に持っていたというか、かなり手酷い裏切りを受けた、という感情を持っていたと思うので、 その点については、野外がどうのこうのと言える問題ではなく、当事者間がどうにかするしかない問題だ、 と僕は思います。

以上

とりあえず、件の一橋大学の件を切っ掛けに考えてた事は以上です。はい。

まー正直、僕みたいに野外が今回の事件で教訓に出来ることは、

他人の機微情報については、例え信頼できる友人間でも、うかつには喋るな

って事ぐらいなので、まあ、なんとも救い所が無い話だな、とか思います。

あと、僕も過去に、

あれ、今思えば完全に『アウティング』だよなー

って案件が何件が有ったのですが、アレ、『アウティング』される側からしてみれば、

なんでソレ今話されないかんのや!

って感じで、

マジで勘弁してくれよ……

って言う最悪の印象しか受けなかったので、ま、他人の機微情報は公の場では話さないに限るし、 また、他人の機微情報に関わる相談事は、本当に信頼出来る人間にしか話さない、という事に限るのではないかな、と思います。


という事で、今日は以上です。はい。

Textwell でカクヨム記法を無限にプレビューできる Action を作った

ついカッとなって作った。

今は公開している。



使い方。

とりあえず Textwell のアクションに上記ソースコードを突っ込んで、

Textwell から実行すればあら不思議、なんとカクヨム記法のプレビューが出来ちゃいます!

という感じで使う。

ちなみに先程、この文章を書いながらに気がつきましたが、カクヨム記法の傍点の実装を忘れてました。そのため現時点では、傍点記法は使えません。多分、今後やる気や必要性が出て来たら実装します。

追記: (2016-08-12) つい先程やる気が出たので、上記コードを修正しました。 一応、特に問題などが無ければ、2016 年 8月現在のカクヨム記法のすべてをサポート出来ているハズです。はい。

あと、上記アクションのコード内の、

Javascript 上での 漢字のUnicode Range 正規表現

については、

より引用(と言うよりコピペして加工)しています。

また、本 Textwell のアクションは基本的には、

と言う扱いでお願いします。


という事で今日は以上。

ちなみに本日は母方の亡くなった祖母の初盆だったりしましたが、 一応、恙無く法事は無事終わりました事を報告だけしておきます。

と言う訳で、以上です。はい。

ブログのデザインを気合入れて刷新した

という話。


いや、以前、はてなブログ Pro に AMP サポートが Beta で入ってから、

あーなんか、はてなブログ Pro を使い続けるかも含めて色々と改善したいなー

と思っていて、実際には、

まあ、今回はやっぱりはてなブログ Pro を使うか!

となったので、とりあえず気合いを入れてブログのデザインを再構築したりして、 新しいモノに刷新するなどしておりました。

それで、今回の刷新では、

  • 白銀比に基く色や値の設定
  • カラーパレットの自作
  • postcss などのツール類の初導入

とかして、かなり気合を入れてモノを作っていて、実際、かなり (自分にとっては) 見易く、かつ、 美しくモノが出来上がったので、かなり満足しておりますです。はい。

ちなみに、今回は Windows 10 でもキチンと表示される事を確認しているので、 まあ今までの Windows だと残念、は解消していると思われます。


んで、ちなみにこのブログのデザインに新らしいモノを適用したのは数日前だったりしますが、 いかんせんそれだけで力尽きていたので、今回の記事は後回しになっておりました。

まあこの記事もそんなに気合いは入ってないのですが、とりあえず、 報告記事だけは書いとかないとなー、と言う感じでモノを書いております。

あと、Google Adsense 広告をついに取り払ったりしたので、 本当は、色々と修正せにゃならん事柄とかも有るのですが、 とりあえずその辺りは後回しになっております。 つーか、やる気しねぇ、という。


ま、とりあえずそんな感じでデザインとか刷新したんで、今後カラクリサイクルよろしくお願いします。

というコト以上です。はい。

何故『目を背けたくなるような表現』から『目を背けさせて』はならないのか

最近、東京都知事選挙に関連して、表現規制問題についての意見を目にする事が、 個人的には、なんか増えてるよなーと感じるんですが、その中の意見の一つとして、

表現の自由は大切だが、だからと言って『目を背けたくなるような表現』を野放しにするのは如何がなモノか

という感じの意見を目にする機会がありました。

それで、つい先程まで、その意見について自分なりに考えていたのですが、 その思考の中で、気づいた事や、あるいは、これは見落されているのではないか、と言う事柄などが、 自分なりにまとまって来たので、今日はその辺りを整理する意味でも、今回の記事を書きたいと思います。

1. 『目を背けたくなる様な表現』は『現実の醜さの写し鏡』である

まず、そもそも、大抵、こう言う表現規制問題的な文脈で言われる、

『目を背けたくなる様な表現』

は、どのような物か、と考えていて、色々と思い付くままに書いてみると、これは例えば、

  • 性的表現では
    • 小児性愛的なモノ (要するにロリ)
    • 不倫や強姦などの反社会的なモノ (NTR とかその辺り)
  • 暴力表現では
    • 流血表現や、殺人の表現
    • あるいは、暴行、虐待、拷問などの非人道的行為
  • 反人道的表現
    • 特定の宗教や宗派への冒涜、禁忌を使った表現
    • 特定の出自などに基く、差別的、あるいは、増悪的な表現

というのが、まあ割とメジャーに問題になると思います。

それで、

これらの表現について、一定の線引きをした方が良いのでは?

という意見を、政治家であったり、あるいは市井の人々であったり、 若しくは、表現を生業にしている人々からであっても、この様な意見が出て来たりして、僕としても、

まあ、感覚としては、判らないでもないけど……

と思ったりします。

しかし、これらの、

『目を背けたくなる様な表現』 は、 何故『目を背けたくなる』のか?

という 根底的な所 について、 皆に考えて欲しい のですが、この、

『目を背けたくなる様な表現』 は、 何故『目を背けたくなる』のか?

という 問い

について、自分なりに考えた結果、僕としては、これは、

『目を背けさせる様な表現』 が忌避される理由は、 『人間の醜さ』や『現実の残酷さ』を『直視させる』からではないか

と言う結論になりました。

つまり、人々が口にする、

『目を背けたくなる様な表現』

とは、

残酷な事実人間の非道さ写し暴く『現実の写し鏡』

であり、その人の罪や業の直視し難さから、それらの表現を忌避したり、 あるいは『目を背けたく』なるのでは、と僕は思います。

2. 『目を背けたくなる表現』から背を向けることは、『醜い現実』から背を向けることである

先の文章では、

『目を背けたくなる様な表現』 は、 何故『目を背けたくなる』のか

について考え、それが

それが 『現実の非道さ』『人間の醜さ』 を写し暴く 『鏡』 であるが故である

と、書きました。

そして、その、

『目を背けたくなる表現』 が、 『現実の醜さ写し暴く鏡』 である

のならば、その、 写し出された現実の醜さを反映した表現 を、法規制などで、

『一定の線引き=表現することを禁じて』 しまっても 良いのか

と、考える必要が有る、と僕は思います。

これについては、各々の考え方や、あるいは政治的信条、もしくは、宗教的、文化的な価値観に基き、 それを判断すべき事柄だ、と僕は考えています。

しかしながら、僕としては、その、

『鏡に写しだされた「現実」の「醜さ」』 を理由に、 その『鏡に写し出すコト=表現すること』を禁じてしまう

のは、現実の醜さや、人間の非道さ、あるいは、罪や欲望といった、人間が向き合わねばならない事柄から 『目を背け』 、 それを見なかった事にする、或る種の逃避行動であり、 『現実の問題』からの『逃げ』 である

と、僕は考えています。

3. その『目を背けたくなる様な表現』は、本当に『線引き=規制』してしまっても良いのか

自分としては、この手の表現規制問題については、昔から反対な立場なのですが、 今回、自分で思考するうちに気付き、そして書き上げた事柄については、 あまり深く考えた事がなかった、というのが正直なところです。

と言うか、僕の場合、昔からどうも抑圧的な方向に思考が流れる指向性が有り、 表現規制問題も、その手の、人民へや政敵への抑圧や弾圧に使われるのではないか、 というのが、率直な反対理由でした。

しかしながら、今回考えた様に、

『目を背けたくなる様な表現』『現実や人間の負の側面の写し鏡』

である、と言う風に考えると、これを安易に禁じたり、あるいは流通を規制したりする事は、 その問題となっている事柄から目を背け、却って現実の問題からの逃げを肯定することとなり、 最終的には、社会問題や人間が引き起す負の連鎖などへの対策を妨げる、 人間社会全体の大きな障害物となり得るのではないか、と僕は思います。

また、この手の表現規制問題で良く言われる、

青少年への悪影響が云々

という意見については、確かに、精神の発達度合いや、あるいは物事への分別が付いてない状態で、 それらの情報に容易に触れたり、あるいは興味半分で手を出したりすると、青少年が痛手を受け傷ついたり、 場合によっては、心的なトラウマになったりする事も有り得る、というのは、理屈としては分からないでもない、と、僕でさえ思います。

しかしながら、だからと言って、そうした情報から、物事の分別が付く、あるいは、その分別を付けられるようになっていく、という発達の段階で、 青少年にそれらの情報を十把一絡げに触れさせない、と言うのは、特定の事柄への無知を広げさせたり、 特定の事柄について、未熟な判断に基く、誤った知識を却って広げかねない、という側面も有るのではないか、と思いますし、また、そういった、

『青少年に有害となり得るかもしれない情報』

について、 全く触れさせない という 無菌状態での教育 は、 その様な情報に触れた時の対応を誤らせ、却って話がこじれてしまったり、 また、非道い被害に有ったりしかねない、と僕は考えているので、 そういった、有害性を含む情報の取り扱いや、それらの情報の見分け方、 あるいは、それらの情報への向き合い方を教える、と言う事が、 真に青少年の為になる教育なのではないか、と僕は思います。

以上

なんか久しぶりにこの手の長い記事を書きました。

なんというか、この手の長文を最近まったく書いてなかったので、 なんか色々と書くのに時間食ったりはしましたが、とりあえず今回の僕の考えや、 あるいは、これを読んだ方々に考えて欲しいな、と思う事柄は、そこそこ書けた様に思います。

という事で、今回の記事は以上です。

何かの参考や、あるいは物事を考える切っ掛けになれば幸いです。