カラクリサイクル

『輝かしい青春』なんて失かった人の雑記

「差別」を無くすためには、自らの内にある「差別する心」とどう付き合っていくか、を学ばせる必要がある

大体、

辺りを読んで思った事を書く。


まあタイトルで言いたい事はすべて言っているんですが、いわゆる、

差別を無くすにはどうしたら良いか?

という問題に対しては、

  1. ヒトという種が持つ「他人を差別する心」というモノを自覚し
  2. また、それとどう向き合い、付き合っていくか、という
  3. 自らの内にある「差別心」との付き合い方を学ぶ

というコトが根本の対策になるのではないか、と思ってます。

で、そういう意味において、僕は、

  1. 「差別主義者」だのなんだのと言って相手を弾劾したり
  2. あるいは「差別」を行うヒトを糾弾したり
  3. 「反差別」を盾に、相手を攻撃する

なんて論外だ、と僕は思います。


で、さっき貼ったリンク先の

というまとめで掲載されていたやり取りに関して言えば、まあ不毛というか、そういう不毛なコトやってても、「差別」は無くならないし、また「反差別」の名を借りた、「新たな差別」も無くせないでしょうね、と僕は思います。

っていうか僕としては、

  • 「差別心」

と言うモノを無くすのなんて無理だろ、と思っていて、それは人間である以上、多分無くならないし、また、それを糾弾や弾劾、あるいは責め立てると言った方法を使って無くそうとするのは、かえって「差別心」を育て上げる結果に繋がる、と僕は思います。

というか、まあ、僕としては、

  1. ヒトは皆、「差別する心」というモノを持っている
  2. 次にソレを前提に、『「差別する心」を持っている』というコトを受け入れる
  3. そして最後に、ソレとうまく付き合い、ソレを発露させない方法を学んでいく

というのが、「差別」を無くすための最も確実な道なのではないか、と思いますね。


まあさっきから同じ様なコトを言ってますが、僕としては、差別を無くす上で一番重要なのは、

  • 「差別心」を一旦受けれた上で「差別」の発露を押さえるすべを学ぶ事

であり、それは決して、

  • 「差別心」を否定した上のでの「差別」の否定

ではない、というコトですかね。


まあでもこれ、多分先人がいるというか、多分仏教的な考え方だとは思いますが、差別云々の話って、いかにして自分の中の醜さと向き合い、それを受け入れた上で付き合っていくか、って話だと思うんですが、なんでそれが他人への攻撃に向かうんでしょうかね。僕としてはそれが疑問です。まあ過去の青かった頃の自分も多分似たような感じだったとは思いますけれども。

なのでまあ、

  • 「差別」を本気でなくしたい

と思うのであれば、そう言った自分の内面とどう向き合うか、あるいは、自分の内面に潜む醜さとどう付き合っていくか、というのを、いかにして気づかせ、また学ばせていくか、というのを考えていくのが良いんじゃないかなぁと僕は思います。


というコトで今日の話は以上ですかね。

っていうか今自室の中が非常にあっついので、あんかり頭が働いてませんが、今日はそういう状態の中での、そんな感じの話でありました。

と言う事で終わります。まる。